「それでも」の向こう側
2023-8-16 (水)
2023-8-16 (水)
ときどき思うのは、他人の役に立ってないという負い目。
仕事上どうとか間接的にはどうとかそういうのではなく、自分が有用な存在としてなにか出来ている実感がないというか。ありがたがられたいとかほめられたいとかいうのとも違う、と思う。
ちょっと抽象的?
承認欲求の亜種のような気もするけど目立ちたいわけでもなく。
ある程度健全に社会に対して参与したい欲求があって、何が不満かそれを果たせないでいるような気持ちなのか、特異な人間である自覚がほしいのか。
人の社会性としてどんなに個人としての欲求を追求してもどこかで物足りなくなって社会への通路へ行き着いてしまう。
自己が自己であることだけでは満足できなくて、他者の承認や評価を必要としていると思うと根本は先に述べた事柄と大元で繋がっているとは思う。
じゃあやっぱりそういうやつじゃん、持って回った言い方して。
と思う部分とそれとは別に安心したい、自分の存在を脅かされない保証/保障が欲しい怯えがあるのにも気がつく。
居場所を作るのが苦手です。
誰かが先に存在している場所に割り込んでいくのが。
有用な存在であろうというのは安全確保のための担保という意図なのかもしれないし、ある程度まっとうで居られるうちは何か貢献しなくてはいけないという端的な道義心や自負かもしれない。
まっとうな"社会人"かは疑問符がつくが、個人として何かできるのではと思いつづけている。壁や殻の存在を目の前に自覚しているのに、現状に対する"それでも"や"だとしても"のような接続詞の向こう側への抜け方がわからない。
そんなことをモヤモヤの期間に思い出すので気の迷いかただの感傷か。
「いまできることをやろう」と人生訓は言うけど、いまできることさえ本質的に何に価値があるかときどきわからなくなる。ドーナツみたいだ。