諦めるかどうか

2023-8-21 (月)

漠然と文章で身を立てようと思っていた頃があった。
あいにくそうはならず、たいして成果をなしていない。果たして才能というものがあるかどうかに関わらず、たとえば小説なら一つの作品として仕上げるのは日々のシステマティックなルーチンワークの賜物ということになるし、世間一般で考えるような壮大な才能というのも実のところは地道な積み上げと修正のうず高い山の上に苦心の建築物として存在している。
そんなことは小説家が手の内を明かした証言でいくらでも証明されることであるし、たった数日で世間をどよめかせるような傑作が出来上がるということはほとんどありえない。世の中は才能の神秘や神がかり的なエピソードを求めるものだし、実際気の遠くなるような苦労を尽くした製作行為の果てに作品が届けられているとはあまり考えないだろう。
ただ書いて本にするだけの楽な商売でしょうと心無い言葉に辟易した作家のエピソードは枚挙がないし、あんなものいくらでも書けると言い放つ素人も後を絶たない。多少苦労を知っている自分でさえ、どこかそんなふうに考えている下心がないわけではない。

と大仰な話をして結局言いたいのは毎日の積み重ねが大事ということ。まず書く体勢を日々決まった時間取るべきというのはなぜかよく言われることで、1文字でも1文でも創作の成果が出ればそれは日々のルーチンになる。明日は100字書けるかもしれないし、明後日はさらに多いかもしれない。その集積がひとかたまりの原稿になる。書いていればいずれ物語は走るし、諦めなければ終わりへ到達する。あとはまた最初に戻って手直しが始まる。
小説を書くにも絵を描くにも、そんなつまらないように見える作業のくりかえしがキモであって、それができない人間はまず物事を終わりまで導くことはできない。スタートから蹴躓いていては何もモノになりはしない。
あいかわらず自分も出来ていない。出来ていないからそれは仕事になっていないわけで、たまに気まぐれた文章をネットに放流して文章書きの真似事でよしとしている。
たとえ才能があると仮定してもそれを使う段階までは入り口にも立っていない。そうしているうちに人生は終わる。悲しいもので多くのことはそんな具合に時間とともに浪費されていく。
本気になるかどうかは自分の胸次第で、やるべきことは決まっていて形からでも成り切れば何かが出来上がるかもしれない。

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